013:第3次人工知能ブームの打上花火としての2045年問題

最近「2045年問題」が話題となっている。「2045年問題」とは、人工知能がこのまま発展すると2045年には人間の知能を超える、という話だ。人間とコンピュータの主従関係が逆転し、人間がコンピュータに支配される日が来るということなのか。そのような事態まで想像しなくても、どこか薄気味悪さは感じる。しかし、このような未来予想を真に受ける必要はない。単なる風説に過ぎない。

 筆者は、人工知能が人間の知性を超えることは絶対ないと確信している。もちろん、計算のスピードや正確さは人間を遥かに凌ぐし、センシング技術と組み合わせれば、人間には知覚できない微細な数値を測定し、人間の及ばないアウトプットを産み出すことはできる。今年の4月、人工知能がプロの棋士と互角に渡り合ったことで電王戦が話題となった。しかし、それをもって「人間の知能と同等になった」とするのは早計だ。チェスや将棋は「完全情報確定的2人零和ゲーム」といって、コンピュータの計算処理能力を活かした力づくの戦法で勝利することができるゲームだ。いままでコンピュータが勝利できなかったにも関わらず、最近になってようやく互角に渡り合えるようになったのは、コンピュータの処理性能(CPUのスピードや記憶容量)が向上したからであって、コンピュータの知能が高くなったわけではない。

人工知能が人間の知能を凌駕する日が来ると考える背景には、人間の思考も人工知能と同様に、形式データをもとにした論理計算で駆動していると誤解しているからだろう(形式データとは、数値やIF文の条件のことを指す)。確かに、人間がおこなっている思考のうち、ある程度はコンピュータに架装することができる。それができなければ、企業で情報システムが人間の代替をできるはずがない。しかし、それは代替の対象となる仕事で論理計算をおこなっているからであり、それは人間の思考のごく一部でしかない。人間の思考が遺伝的性質に基づき、身体と情報をやり取りしながら、情動をともなって駆動していることが、近年の脳科学や生物進化学の研究でわかってきている。デカルトの言う「心身二元論」ではなく、むしろ「心身一体」なのだ。そのような領域まで考慮に入れない人工知能が人間と同等以上の知能を持つことはできない。

さらには、人工知能は論理計算のうち演繹しかできない。近年のビッグデータブームによってあたかも帰納ができるように見えるが、実際には帰納を実現するためのルールを人間がプログラムしないとコンピュータは動かない。ルールに則るということは演繹に他ならない。1980年代の人工知能ブームを鎮静化させたきっかけに「フレーム問題」というものがあった。紙幅の都合からその中身には触れないが、要するにフレーム問題で取り扱っていたことは、人工知能にはアブダクションができない、ということだ。アブダクションができないことは致命的だ。なぜならば、C.S.パースが言うように、アブダクションこそ人間の創造力・知的活動の源泉だからだ。アブダクションができない限り、人工知能は人間の知能を超えることはできない。

70年弱のコンピュータの歴史の中で、人工知能ブームは今回を含めると3回あった。1回目は、コンピュータの黎明期にチューリングやマカロック・ピッツを中心としたブームで1950年代の終わりにダートマス大学で第1回の会議が開催された。2回目は1980年代で、ニューロ理論やファジー理論がもてはやされた。日本では、第5世代コンピュータの研究が盛んにおこなわれた(フレーム問題は第2次ブームのときに持ち上がった)。そして昨今の人工知能の話題の盛り上がりを第3次ブームとすると「人工知能ブーム30年周期説」が成り立つかもしれない。研究者の世代交代と符合するのだろうか。第1次、第2次共、今日の「2045年問題」同様、「あと10年もすれば人間に追いつく」といった楽観的見通しが研究者から発信されたが、残念ながらその後数十年を経ても実現されていない。そして、おそらく今回のブームも同様の結果となるに違いない。

しかし、人間の知能は超えないまでも、人工知能が社会の毛細血管まで入り込むことの影響は現れはじめている。「オートメーションバカ(ニコラス・カー:2014年/青土社)」ではそのような事例がたくさん出てくる(それにしてもひどいタイトルだ)。例えば、飛行時間の大半を自動操縦で運行している大型旅客機のパイロットが、突発的な気象変動に対処できず墜落した事例や、GPSとスノーモービルが普及したことによって、それまでイヌイットに備わっていた鋭敏な感性・経験が失われた事例などがあげられている。一言でいえば、人工知能化による人間の経験の遮断だ。カーは、著書で度を越したIT化に歯止めをかけることを提唱している。しかし、人工知能もそのひとつである文明化とは、ある意味でそれまでの人間の経験をツールに委ねることだから、殊更人工知能ばかりを目の敵にするわけにはいかないし、人類が文明化を放棄することは考えられないから、その実現可能性は低いと思う。

その点、エリック・ブリニョルフソン、 アンドリュー・マカフィーが「機械との競争(2013年:エリック・ブリニョルフソン、 アンドリュー・マカフィー/日経BP社)」や「ザ・セカンド・マシン・エイジ(2015年:同)」で述べていることには現実味がある。彼らは「餅は餅屋」という考えだ。人工知能が得意な仕事はさっさと人工知能に任せて、人間は人間だけしかできない仕事、すなわち創造的な仕事に注力しましょう、というのが彼らの考えだ。もちろん、明日から創造的な仕事に就くわけにはいかないので、それに向け教育の整備が必要だと言っている。

さて、2045年には社会はどのようになっているのだろうか。人類がロボットに支配されているのか、それとも、反人工知能法が制定されて飛行機は手動操縦に戻っているのか、あるいは就職先はすべてクリエイティブな職業ばかりになっているのだろうか。いずれにせよ、いま社会は変曲点をむかえているのかもしれない。だた、忘れてはならないのは、様々な問題点はあっても我々はITから大きな恩恵を享受しているということである。

012:コンテクストレス コミュニケーション

 「モンスターペアレント」という言葉はすでに日常言語として定着した感がある。テレビなどで取り上げられている「モンスターペアレント」の典型的な事例は、「先生、なぜうちの子にも平等に学芸会の主役をやらせてくれないのですか」といって担任の教師に詰め寄る類だ。おそらくその親の言動の背景には、我が家庭は授業料をきちんと収めているから相応の処遇を得られるべきだ、という考え方があるのではないか。もちろん、そのさらに根底には、我が子にいい思いをさせてやりたい、という親心があるわけだが、一見常軌を逸したかのように見えるその親が自信をもって担任の教師に臨めるのは、対価に見合ったサービスを提供する、という経済活動のルールを教育の現場にあてはめて、学校側がそのルールを履行していないことを根拠にしているからだろう。

011:歴史は繰り返すのか

インテリジェントメロンでは情報社会が梅棹忠夫氏の「外胚葉社会」を意味することはブログ002003004で述べた。