012:コンテクストレス コミュニケーション

 「モンスターペアレント」という言葉はすでに日常言語として定着した感がある。テレビなどで取り上げられている「モンスターペアレント」の典型的な事例は、「先生、なぜうちの子にも平等に学芸会の主役をやらせてくれないのですか」といって担任の教師に詰め寄る類だ。おそらくその親の言動の背景には、我が家庭は授業料をきちんと収めているから相応の処遇を得られるべきだ、という考え方があるのではないか。もちろん、そのさらに根底には、我が子にいい思いをさせてやりたい、という親心があるわけだが、一見常軌を逸したかのように見えるその親が自信をもって担任の教師に臨めるのは、対価に見合ったサービスを提供する、という経済活動のルールを教育の現場にあてはめて、学校側がそのルールを履行していないことを根拠にしているからだろう。

 かつて東京地検特捜部に在籍し現在は大学の教授をしている郷原信郎氏の著作に「法令遵守が日本を滅ぼす(2007年:新潮社)」「思考停止社会(2009年:講談社)」というどちらもほぼ同じ内容の新書があるのだが、氏はそこで、何にでもすぐに法令に照らし合わせて、白黒をはっきりさせる昨今の日本の風潮に警鐘を鳴らしている。法令は、係る事態の事情を斟酌し適切に使用すべきであり、そのためには知恵が必要だ。すぐに法令と照合することは思考停止である、ということだろう。郷原氏は、昔は何か揉め事があった場合、すぐに法令などに訴求せず現場でうまく処理していた、と言う。私が幼少の頃はすでに残滓すら消えかかっていたが、例えば昔は、下町の各地域に大工の棟梁などが居て、その地域をうまく取り仕切っていた。地域に揉め事があると住民が棟梁に相談に行き、相談を受けた棟梁は法令などを照合せず関係者が納得するような形で事態を収集していた。

 モンスターペアレントもある意味で思考停止の顕著な例だと言えるが、郷原氏が示した法令遵守社会を含めて、なぜそのような社会となったのか。ひとつには、共有する文脈の欠如が要因としてあるのではないかと筆者は考えている。モンスターペアレントの例で言えば、かつての「学校/教師」と「生徒/生徒の親」との関係では、”教育は聖職である”という文脈が前提として常にあって、そのうえで両者のコミュニケーションが成り立っていたはずだ。あるいは、”身の程”という文脈があって、例えば「うちの倅は出来が悪いから学芸会で端役しか回ってこないが仕方がない」という、親の客観的な現状認識があった。下町の地域コミュニティにおいては、大工の棟梁が「まぁここはお互い収めるところは収めましょうや」と言って最終的に手打ちにするという運用が前提としてあったのだ。このような文脈の欠如が、事態を一気に経済ルールや法令にまで直結して解釈することに繋がっているのだと思う。

 ところで、筆者は職業柄顧客企業の情報化戦略立案に関わったり、新たな事業改革の一環としての情報システム刷新プロジェクトに関わったりすることが多いのだが、そのようなプロジェクトのほとんどでは目標の設定が重要とされている。例えば次のようなものだ。

 

  【事業改革の目標の例】

    グローバル化、新興工業国の台頭など目まぐるしく変化する経営環境の中で生き残るため、   顧客基盤のさらなる整備と、それをもとにした情報の効果的且つ効率的な活用を推進する。そ   してその実現のためには、過去の慣習に囚われることなく業務改革を断行する必要がある。    云々...

 

この文章を読んで、我社にも当てはまると感じた読者はどのくらいおられるだろうか。

 ドイツの言語学者であるウヴェ・ペルクゼンは、その著書「プラスチック・ワード(2007年:藤原書店)」のなかで、日常言語の中に入り込んでいる特異なことばの存在を取り上げている。それが著書のタイトルになっている「プラスチック・ワード」だ。ペルクゼンの定義によれば、プラスチック・ワードとは、おおよそ次の特徴をもつことばのことである(そのまま引用すると長いので筆者が適宜要約)。

 ・使用に際して話し手はコンテクスト(文脈)を付与することができない。

 ・はじめは日常言語として生まれ、その後科学用語として用いられたあと、再び日常言語の世界  に回帰してきたことばである。しかし、日常の使用においては、科学用語として用いられたときほど 明確な定義はない。

 ・歴史的次元を排除し、普遍的・抽象的概念を表す。究極の内包的表現であり、その意味では、プ ラスチック・ワードを使用した文章は否定できない(どのようにでも解釈され得る)という意味で肯定 されるが、外延的な表現が欠落しているため、そこから具体的な意味を捉えることができない。

 ・使用者を、気づかぬうちにプラスチック・ワードが表現する概念の下に取り込み、使用者の思考を その概念の枠組みの中に規定する。

 ・その特徴から、権威と結びつきやすい。

 ・プラスチック・ワード同士を組み合わせれば簡単に文章が作成できる。

ペルクゼンは、プラスチック・ワードの事例として、次のようなことばを例示している。

 ・基本的ニーズ ・アイデンティティ ・リソース ・ケア ・インフォメーション

 ・役割 ・センター ・生活水準 ・サービス ・コミュニケーション

 ・マネージメント ・セクシュアリティ ・消費 ・モデル ・ソリューション

 ・コンタクト ・近代化 ・ストラテジー ・決定 ・パートナー ・構造

 ・発展/開発 ・プランニング ・サブスタンス ・教育 ・問題 ・システム

 ・エネルギー ・プロセス ・トレンド ・交換 ・生産 ・価値 ・ファクター

 ・進歩 ・福祉 ・帰納 ・プロジェクト ・仕事 ・未来 ・マテリアル

 ・成長 ・関係性

 さて、先にあげておいた事業改革の目標は、筆者がプラスチック・ワードを組み合わせて作成した文章だが、その内容が我社にもあてはまると感じた読者がおられるとすれば、それは筆者が、ペルクゼンの言う、プラスチック・ワードを操作するエキスパートとして及第点を得た(あまり喜ばしくないが)ということだろう。因みに、書いてあることがさっぱりわからない、と感じた読者は、ことばに対して鋭い感受性を持っているに方に違いない。本来であれば事業目標にあげたようなことばを真に受ける必要はないのである。

 しかしながら、業務改革プロジェクト(このことばもプラスチック・ワードだ!)の企画書などでは、事業目標で例示したような文章がプロジェクトの権威付けのために求められる。特に、企画書を受け取る側の経営者はそのような文章であたかもプロジェクトの半分が成功したかのような印象を受けるのであり、企画書を提出する側のコンサルタントはそのことがわかっているから、巧みにそのような文章を作り上げる。やがてプロジェクトが始まり議論が紛糾し、そのとき初期の目標に立ち返って議論をしようという提案がなされることはよくあるが、目標に立ち返ってみたところで、そこに表現されている文章は、どうとでも解釈できるような空疎な内容なのだ。

 ペルクゼンは、プラスチック・ワードが日常会話に目立たないように浸透し、人々の言動を規定していることに警鐘を鳴らしているのだが、それは、冒頭にあげたモンスターペアレントや法令遵守社会にもあてはまるものだ。モンスターペアレントは、経済ルールのことばに囚われすぎていて、それを無意識のうちに教育の場に持ち込んでいるのだ。教育の現場という文脈に、文脈が付与できないプラスチック・ワードを適用したために生じた混乱なのだ。

 ペルクゼンの警鐘にも関わらず、今日においてプラスチック・ワードの蔓延は進む一方のように思われる(ペルクゼンがドイツ語でプラスチック・ワードを執筆したのは1985年だから、極めて先見の明があったと言わざるを得ない)。ところで、プラスチック・ワードの蔓延とともに文脈のないことばを増殖させているものとしてITをあげることは違和感なく受け入れられることだろう。インターネットを介して空間を飛び越えて流通することばには日常会話相当の文脈を付与することは困難だ。あるいは、「閉じこもるインターネット(イーライ・バリサー著 2012年:早川書房)」にあるように、Googleが検索ワードからそれぞれの利用者をパーソナライズして、検索結果を提示するような機能では、利用者が情報検索に至るまでの文脈がまったく考慮されていない。利用者は自分と反対の意見を知りたいのかも知れないし、学校の宿題に関係してググっているのかも知れない。しかし、コンピュータはそのような文脈を理解できないので、Googleは利用者の検索キーワードだけから、このひとはリベラル、このひとは保守派などとパーソナライズして、利用者の関心に見合った検索結果を表示することになる。バリサーは、Googleの、この言わば親切機能によって個々の利用者が特定の情報だけに囲い込まれ、どんどん蛸壺化していくことを危惧している。

 近年、LOD(Linked Open Data)が注目を集めつつあり、本ブログでも何度か取り上げたことがあるが、その普及は文脈のないことばの増殖を助長しないだろうか。LODは、他者が公開しているデータをうまく結びつけて、コンピュータが取り扱いやすい形式(機械可読)でWeb空間上にデータを公開するための一連の技術体系だ。LODではデータがオープンであることに加えて、データ同士がリンクされていることに価値がある。現在LODを推進する各種団体では、リンクの推進のために共通語彙の整備が進められているが、それは同一の意味に同一の語彙を用いることによって、円滑なデータの解釈やコンピュータ処理を実現することが目的にある。共通語彙の代表的なものには、ダブリンコアやFOAF、schema.orgがある。ダブリンコアやFOAFは特定の範囲の語彙に限定(例えばダブリンコアでは、作成者や作成日などデータの出自に関する語彙を定義している)しているのだが、GoogleやMicrosoftが母体となって推進しているschema.orgは最終的にほとんどのことばを共通語彙化することを目指していると思われる。

 筆者は、LODが普及した暁には、現在では想像できないような多様な恩恵を人々にもたらすと考えているが、同時に、共通語彙により記述されたデータの流通は、プラスチック・ワードのように文脈を伴わないことばがWeb上を行き来することを意味する。そのとき、ペルクゼンの先の著書「プラスチック・ワード」にも出てくるが、オーウェルが「1984」で描いたニュースピークのように、(たとえ現実の世界では悪意が見られないにしても)共通語彙化されたデータの多用が、人間の思考の幅を狭め、価値観を一定の方向に仕向けてしまうことにならないだろうか。

 筆者は文脈を欠いたコミュニケーションが蔓延する社会が帰結する姿を具体的に想像することはできないが、その社会は人類にとって良いものではないように思える。一方で、多義性を排除したことばによるコミュニケーションは効率的であり、使い方によっては社会に大きな恩恵をもたらすだろう。結局は、LODに限らずITそのものに、文脈を欠いたコミュニケーションを蔓延させてしまう潜在的な力があることをわきまえて、使用箇所を見極め、適切にそれらを使用すべし、という月並みな注意喚起に至るわけだが、筆者は、それでもなお、その注意喚起が文脈を欠いたコミュニケーションの拡大に対する歯止めにはならないと考えている。

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